#春樹力の高い童話 に見る「ファンになってもらう」大事なポイント
なんかネットで出回ってた
昔はよく村上春樹の小説を読んでいたので、どこか懐かしい気持ちになった。
ああ、あったよなあ、こんな言い回し、と。
「メタファーとしての鬼」と僕は言った。あるいは概念としての鬼。
「そういうテーマで童話でも書けば」と猿が言った。
「実に」と犬が笑った。
「かっこう」とキジが鳴いた。
#春樹力の高い童話
— bois(ボア@プロ寝違え師) (@du_bois) 2014, 8月 21
「マッチ棒はいりませんか?」と彼女は言った。
「マッチ棒」ぼくは繰り返した。
赤子の指ほどしかないそれを彼女は手のひらでロールキャベツみたいに包みながらぼくのほうへ差し出してきた。
#春樹力の高い童話
— マッキー氏(20歳のデブ) (@magic_mackee) 2014, 8月 21
玉手箱を見つめていた。
まるで玉手箱が僕を見つめているのかと思うくらいに。
乙姫はどういう気分でこれを渡したんだろう。
葛藤はあったのだろうか。後悔は?
考えても仕方のないことが胸をよぎり、波音が僕の思考を遮った。
「オムツを買わないと」完璧に。200%。
#春樹力の高い童話
— たられば (@tarareba722) 2014, 8月 21
その夜、僕は鬼を退治した。そうすることが正しかったのかどうか僕にはわからない。でもそれ以外にどうすればよかったのだろう?
#春樹力の高い童話
— ヤマケン (@gcyn) 2014, 8月 21
その靴は彼女の足に寸分違わずぴったりだった。まるでどこかの親切な魔法使いが彼女のためにあつらえたみたいに。
「君をずっと探していたんだ」
「知ってる」
「あの舞踏会の夜から、一日だって君のことを考えなかった日はないよ」
「ほんとうの事を言うとね、私もなの」
#春樹力の高い童話
— ぬぅ (@deltanu31) 2014, 8月 21
鏡に映る姿を眺めていた。
そのうち、鏡に映る相手の動きにこちらが合わせているような感覚になってくる。
相手の口の動きに合わせてこう尋ねさせられた。
「この世で一番美しいのは」
「それは君かもしれないし、君じゃないかもしれない」
やれやれ。こうして旅は始まる。
#春樹力の高い童話
— 腹筋立て伏せ (@haradatakasii) 2014, 8月 21
自分でも幾つか
確かこんな表現もあったような、と幾つか書いてみた。
意外とすらすらと出てくるものですね。
やれやれ、晩秋の森に何をしに行くんだろうと赤ずきんは思った。
赤ずきんは小さくため息をつき、オオカミの森に足を進めた。母の願いには静かに従うこと。それが彼女のささやかな行動規範だった。
「オーケー」。赤ずきんは努めて明るく声を出してみた。
#春樹力の高い童話
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
クマが隣で静かに眠っている。金太郎はその暖かさを、まるで湖の底に静かに沈んでいた宝物のように愛しく思った。
僕は現実の空気をうまく震わせることができるだろうか?
頭の中で幾つかの文句を呟いて、その中から一つを選んだ。
「クマ、相撲だ」
#春樹力の高い童話
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
人は「形式」に惹かれるのかもしれない
久しぶりに村上春樹の文章を思い出してみたけど、具体的な文章が幾つか思い浮かんだ。そういうのって大事なんだろうねえ。何を書くか、よりも、どう書くか。スタイルにファンがつく。
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
題材はものによって違うんだけど、どれも村上春樹の匂いがする。たぶんそれは切り取り方だったり文体だったりする。題材を好きになる、っていうのが想像つかない。メディアもそうなのかもしれない。
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
つまり、何をテーマとして書くか、というよりは、どのようにして書くか、ということ。
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
山下達郎や大滝詠一のように、それほどがらっと変化するわけではない、主題は変わらないのに、それを好きでいつづける人はいる。それは、そのスタイルが体験の連続性を生み出しているからなのか、と思ったりする。
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
独自性やブランドみたいなものは体験から構築される気がするので、そういった共通体験を提供するスタイルは何なのか、みたいな着眼点が大事なのかなと思ったり。
— やまぐち りょう (@d_tettu) 2014, 8月 21
人があるものに対して「ファン」になる、ということは、これまでの体験やそれによってもたらされる快感が今後も得られるであろう、という連続性への期待感からもたらされる行動だと思っている。
上述したように音楽などで考えると分かりやすいのかもしれない。
また、村上春樹のファンは彼が何を書いても、それが村上春樹であることをやめなければ、おそらくフォローし続けるだろう。
そこにコアなファンがつく大事な要素として、以下のことをパッと浮かべてみた。
- 文体や音楽性、歌詞などに「スタイル」はあるか
- メッセージに普遍性があるか
- 良い品質か
漠然としているけど。
よくある「色が必要」みたいな話をする時に、政治メディアだ〜とかファンクとポップを組み合わせた〜とか言う話の仕方をしてしまいがちだけれども、そうではないのかもしれない。
自分たちの「らしさ」が、表現の細部にどのように表れているのか、そしてそれがどのように伝えられるのか。
そんなことが大事なのかもしれない。
隊長の「mixiの滅亡をお祈りしております」の伝統芸能のような結びみたいに。